朝は曇り空の一日かと思いましたが,徐々に雲が切れ,日中は日差しの強い一日になりました。
先日,つくで手作り村で作っている“お菓子”をいただきました。
米粉に作手産ミネアサヒ米を使うなど「つくで」の産物にこだわった,『とろろの夢』と『城下饅頭』でした。
「つくでの良さを伝えよう」,「新しい銘産にしよう」という気持ちの伝わっていくる(?)お菓子でした。
美味しかったです。
高校生のとき,「土曜日の午後,レコードコンサートをする…」と知人が準備を始めました。
選曲されたのはレナード・バーンスタインが指揮する曲でした。
前回,ヘルベルト・フォン・カラヤンの指揮を聴いているので,それと比べてもらおうという企画でした。
当日,会場は満員でした。
“レコードコンサート”は過去の遺物だとは思いますが,クラシック曲を集めた校内の催しに,今でも高校生が集まるでしょうか。
当時の高校生は,「本物を聴きたいけど無理だから,せめてレコードで…」と,自分の感性を高めたい,磨きたいと集ってきました。
そうした高校生,大学生の頃を,齋藤孝氏が『なぜ日本人は学ばなくなったのか』(講談社現代新書)
に著したことを読みながら思い出しました。
その頃,「知らない」ことが恥ずかしかった環境があったと思います。
齋藤氏は,今の日本人が「リスペクトの精神」を失っていることを軸に述べています。
“やさしさ思考”の問題点,アメリカ化が学びを奪った,勉強熱のある「書生」などと話を進めていきます。
こういう若者の変化を見て,前の世代の人々が「教養のない人が増えてしまった」と絶望していたのが三十年ほど前。現在では,嘆く人すらいなくなってしまいました。教養という尺度で日本のこの三十年間を振り返ると,極端に劣化してしまったことは間違いありません。「無教養」,より正確には,「自らの無教養に対する羞恥心のなさと開き直りの態度」は,そのまま「バカ」と言い換えることができるでしょう。(p.155)
リスペクトの精神,学ぼうという意欲を持てずにいる若者,社会に対して,“特効薬”が見いだせずにいるのは齋藤氏も同じのようです。
若者から「学びたい」という意志がわきでるような生き方ができるよう,大人の「今」を変えていくことが必要だと思います。
人は誰でも,「何かをリスペクトしたい」という気持ちをかならず持っています。現代の若者にしても同様です。ただ彼らは,そういう感情を表に出す経験をせずに育ってしまった。だから勉強もせず,人づきあいも苦手で,お金も覇気もない状態に追い込まれているのです。彼らを批判することは簡単ですが,それでは何の解決にもなりません。“仏法僧”に当たる「学びのあこがれ」の対象を提示し,彼らのリスペクトの導火線に火をつけてやることが,上の世代の責任ではないでしょうか。(p.208)
齋藤氏は,本書をこのように閉じています。
若者に“あこがれ”を示していける大人,子どもに“あこがれ”を抱かせることのできる学校でありたいと思います。
【おまけ】
◇作手見聞録
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